2011年1月22日土曜日

長尾景虎(上)

戦国くじ白で武将カードNo.4002「長尾景虎(ながおかげとら)」を引き当てました!!


ワンコのコメント:
『越後の龍』こと上杉謙信の若かりし頃の姿だワン!!
自ら毘沙門天の生まれ変わりと信じ、とても義を重んじる武将だったワン!


以下Wikiより抜粋(Wikiがあまりにも長文のため本当に一部分だけ抜粋):
上杉 謙信(うえすぎ けんしん)/上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の武将・大名。後世、越後の虎越後の龍軍神と称されている。

武神毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「」の文字を使った。時には自らを毘沙門天の化身と称したともいう。


毘沙門天
毘沙門天(びしゃもんてん)、梵名ヴァイシュラヴァナとは、仏教における天部の仏神。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神である。また四天王の一員としてだけでなく、中央アジア、中国など日本以外の広い地域でも、独尊として信仰の対象となっている。


上カードでは一番ほしかったカードかもしれません!
かなり嬉しいヾ(@^▽^@)ノ

攻撃17 防御14 兵法1.5
パネェ。

2011年1月21日金曜日

姉小路頼綱(上)

戦国くじ白で武将カードNo.4059「姉小路頼綱(あねがこうじよりつな)」を引き当てました。


ワンコのコメント:
飛騨の戦国武将で、信長と手を結んで勢力を広げたワン!
自分に反対する勢力は、息子までも攻め滅ぼしたらしいワン・・・。

以下Wikiより抜粋:
永禄2年(1559年)、父の命を受けて国司である姉小路家の名跡を継承する。元亀3年(1572年)、上杉謙信の要請に応じて越中に出兵したが、その直後に父・良頼が死んだため、家督を継承した。

天正6年(1578年)、謙信が死去すると織田信長と手を結び、本拠を松倉城に移して飛騨の支配体制を固める。上杉氏から織田氏への鞍替えには反対する傘下の国人衆も多く、頼綱はこれをことごとく攻め滅ぼすという政策を取った為に、本家の領地は増えたものの姉小路氏を支援する勢力は減り、結果的に勢力を弱めることになる。また天正7年(1579年)には長男の姉小路信綱に謀反の疑いをかけ殺害した(天正11年(1583年)のこととする説もある)。織田傘下では佐々成政の越中侵攻に協力した。

天正10年(1582年)、信長が本能寺の変で死去すると、かねてから敵対関係にあった江馬輝盛や小島氏、さらに実弟の鍋山顕綱を討って、飛騨を完全に制圧した。その後は柴田勝家や佐々成政と手を結んで羽柴秀吉と対立する。このため、秀吉の命を受けた金森長近の侵攻を招き、自身の籠もった飛騨高堂城を攻められて降伏した(富山の役)。これにより戦国大名としての姉小路氏は完全に滅亡する。子の秀綱など一族の多くは自害したが、頼綱は助命されて京都に幽閉され、天正15年(1587年)に同地で没した。


絵からしてダークな雰囲気ですよね・・・。
スキル「国貫き」がいったいどういう使い道があるのか私にはまだ分かりませんが・・・。
指揮兵数も「1710」と少ないですし・・・使い物になるのでしょうか??
Wikiを読んでもあまり好きにはなれない武将です。
合成の生贄にしちゃおうかな・・・(;´∀`)

2011年1月20日木曜日

長尾政景(上)

戦国くじ白で武将カードNo.4039「長尾政景(ながおまさかげ)」を引き当てました。


ワンコのコメント:
上田長尾氏の当主で越後坂戸城の城主だった武将だワン!
船遊び中に溺死するという最後を迎えたらしいワン・・・。

以下Wikiより抜粋:
長尾 政景(ながお まさかげ)は戦国時代の武将。上杉景勝の実父である。上田長尾氏の当主で越後坂戸城主。

上杉 景勝(うえすぎ かげかつ(長尾 顕景(ながお あきかげ)または長尾 景勝(ながお かげかつ))は戦国時代から江戸時代にかけての武将・大名。豊臣政権の五大老の一人。


騎馬隊守護。
指揮兵数も「2120」と多めですね。
成長は攻撃14 防御14 兵法2.0でなんでもいけちゃうタイプ。
初期値が攻撃のほうが若干多いので防御武将に育てるべきなのか迷います・・・。
絵がかっこいいから育てたい・・・。

内藤昌豊(ないとうまさとよ)

戦国くじ白で武将カードNo.4036「内藤昌豊(ないとうまさとよ)」を引き当てました。


ワンコのコメント:
武田家に仕えた戦国武将だワン!
『武田四天王』としても知られる人だワン!!

以下Wikiより抜粋:
馬場信春、山県昌景、高坂昌信(春日虎綱)らとともに武田の4名臣の1人として数えられた。

昌豊は信玄の代表的な戦争に全て参加し、常に武功を立てていたが、信玄からは一度として感状をもらうことが無かった。このことについて「甲陽軍鑑」で信玄は、「修理亮ほどの弓取りともなれば、常人を抜く働きがあってしかるべし」と評して敢えて一通の感状も出さなかったという。一方の昌豊も、「合戦は大将の軍配に従ってこそ勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることなど小さなことよ」と感状を貰っていないことなど気にもかけなかったという。これは信玄と昌豊の信頼関係の厚さを示すものである。


迅速行軍!
確率100%で部隊の移動速度が10%上昇します!
スキルレベル10まであげれば移動速度が20%上昇するようですっ!
騎兵系の攻撃スキルを付けてあげたいですね。
指揮兵数は少ないですが「赤備え」で部隊を構成した日には・・・。
「赤備え」の移動速度が「25」なのでスキルレベル1で移動速度「27.5」、スキルレベル10になったら移動速度「30」!
救援に便利そうですね。
まぁスキルレベル10はかなりハードル高いの分かってますが・・・。

鳥居元忠(上)

戦国くじ白で武将カードNo.4051「鳥居元忠(とりいもとただ)」を引き当てました。


ワンコのコメント:
徳川家康に仕えた戦国武将だワン!
『三河の武士の鑑』と称賛された忠義の人だワン!!

以下Wikiより抜粋:
鳥居 元忠(とりい もとただ)は、安土桃山時代の武将。徳川家康の家臣。下総国香取郡矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖。

鳥居忠吉の三男として三河国碧海郡渡郷(愛知県岡崎市渡町)に生まれる。父は松平氏以来の老臣で、岡崎奉行などを務めた。元忠も家康がまだ「松平竹千代」と呼ばれて今川氏の人質だった頃からの側近の一人である。家康の三河統一後、旗本先手役となり旗本部隊の将として戦う。

慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると、伏見城を預けられる。家康らの出陣中に五奉行・石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は1,800人の兵力で立て籠もる(伏見城の戦い)。元忠は最初から玉砕を覚悟で戦い続け、13日間の攻防戦の末、鈴木重朝と一騎打ちの末に討死した。享年62。その忠節は「三河武士の鑑」と称された。このときの伏見城の血染め畳は元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせた。明治維新により、江戸城明け渡しの際、その畳を栃木県下都賀郡壬生町の精忠神社脇に埋め供養した。床板は、「血天井」として京都市の養源院をはじめ、宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺に今も伝えられている。


槍防御武将として育てます。
指揮兵数が「1780」と少し少ないですが、このカードの絵が好きです。

秋山信友(上)

戦国くじ白で武将カードNo.4032「秋山信友(あきやまのぶとも)」を引き当てました。


ワンコのコメント:
武田家に仕えた武将だワン!
『武田二十四将』の一人でもある人だワン!!

以下Wikiより抜粋:
秋山 虎繁(あきやま とらしげ)は、戦国時代の武将。甲斐国武田氏家臣で譜代家老衆。武田信玄・武田勝頼期に活動が見られる。武田二十四将にも数えられる。諱は『甲斐国志』による「信友」とされてきたが、近年は『戦国遺文』『山梨県史』の編纂事業に伴う文書調査によって武田家臣の実名の確定作業が行われ、確実は諱は「虎繁」であることが指摘されている。

武勇だけではなく知略にも優れ、永禄10年(1567年)、信玄が織田信長と同盟を結ぼうとしたとき、多くの重臣が反対する中でひとりだけ信長と同盟を結ぶ利を説き、諸将を同意させたという。永禄11年(1568年)には織田信長の嫡男・織田信忠と信玄の4女・松姫との婚約成立に伴い、岐阜へ名代として赴いている。このとき、信長は信友を手厚く歓待したと言われている。


スキルが「城砕き」、指揮兵数「1670」・・・弓騎馬・・・で使えるのだろうか。
コスト2が魅力的ではあります。

2011年1月18日火曜日

ネットカフェ限定 新春!戦国福袋!

公式サイトに告知がありました「新春!戦国福袋!」を1枚(3000円)買ってみました。
ネットカフェに行き、店員さんに「戦国IXAの福袋をください」と言うと2、3分後にシリアルコードが印字されたA4の用紙を渡されました。

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■福袋の内容
・【特】以上の武将確定のシリアルコード1枚
・戦国くじチケット「炎」・「火」のシリアルコード4枚
合計5枚のシリアルコードが1セットになった福袋です。
(福袋はシリアルコードが印字されたレシートになります)

なお、武将カードの種類、戦国くじチケット「炎」・「火」が手に入る割合は
ランダムとなっております。
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帰宅後さっそく「炎」or「火」のシリアルコード4枚を使ってみました。
全て12ワールドで使いました。


「火」。


「火」・・・。


「火」・・・(´・ω・`)


「火」・・・(´;ω;`)

「火」4枚(´;ω;`)

続いて【特】以上が確定しているシリアルコードを使用。


【特】鍋島直茂(なべしまなおしげ)・・・。

16ワールドで戦国くじ白で出たばっかりでなんかありたがみが・・・(´;ω;`)
【極】【天】ほしいよぉ。

まぁ気を取り直して戦国くじチケット【火】を使ってみました。
ふと見ると「所持枚数 7枚」・・・。
アレデス、ゲームを始めたばかりでロクな役に立ってないのに合戦で【火】チケットを3枚貰ってたようです。

結果は散々なものでした・・・【上】7枚(´・ω・`)








2011年1月15日土曜日

富田重政(上)

戦国くじ白で武将カードNo.4049「富田重政(とだしげまさ)」を引き当てました。


ワンコのコメント:
前田家に仕えた戦国武将だワン!
中条流の剣豪で、『名人越後』と絶賛された人だワン!

以下Wikiより抜粋:
中条流
中条流(ちゅうじょうりゅう)とは室町時代初期に中条長秀(?~弘和4年(1384年))によって創始された武術の流儀である。

剣術以外にも小太刀や槍術の技術も伝える総合武術であった。

中条家は長秀の孫・詮秀、曾孫・満秀の代で断絶したが、流儀は長秀から甲斐豊前守広景へ継承され、さらにその門人・大橋勘解由左衛門高能から山崎右京亮昌巖へと伝わった。昌巖が戦死したため、昌巖の弟子、冨田九郎左衛門長家が後見人として昌巖の子、山崎右京亮景公と山崎内務丞景隆へと中条流を伝えた。

後の一刀流、冨田流(戸田流、當田流、外他流)等、多くの有名流派の母体となった。


中条流の流派のひとつ?に・・・

巌流
巌流(がんりゅう)は、宮本武蔵のライバルとして知られる、佐々木小次郎が創始した剣術の一派。

現在は失伝している上に資料も少ないので詳細は不明である。小次郎は中条流(富田流)を学んだと長年言われており、一般には中条流の流れとみられてきたが、近年発見された伝書を見ても小次郎は鐘捲自斎の弟子と見るのが妥当であり、自斎を開祖とする鐘捲流の流れを汲む流儀とも考えられている。

巌流は佐々木小次郎の号でもあり、小次郎と武蔵が戦った島は巌流島と呼ばれる。

2011年1月14日金曜日

柴田勝家(上)

戦国くじ白で武将カードNo.4018「柴田勝家(しばたかついえ)」を引き当てました。


超有名武将です。

ワンコのコメント:
織田家に仕え、家老もつとめていた武将だワン!
武勇秀で『鬼柴田』という異名ももつ猛将だワン!!

ワンコのコメントにもあるとおり柴田勝家は織田家の重臣。

以下Wikiより抜粋:
本能寺の変後、織田氏の後継者問題では信長の三男・織田信孝の烏帽子親を務めていたこともあり、信孝を推したが、明智光秀を討伐したことで実績や発言力が大きかった羽柴秀吉(豊臣秀吉)が信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁立したため、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなり、信長の遺領配分においても河内や丹波、山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡、長浜城(現在の長浜市)を得るにとどまり、勝家と秀吉の立場は逆転してしまった(清洲会議)。なお、この後に羽柴秀吉の仲介を受けてお市の方と結婚している(従来は信孝の仲介とされて来たが、秀吉の仲介の書状により、秀吉による仲介説が有力となっている)。

その後勝家は滝川一益、織田信孝と手を結んで秀吉と対抗するが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前北ノ庄にてお市とともに自害した。享年62。辞世の句は「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」。

・信長に一度反抗した人物にも関わらず、信長は勝家の武略を高く評価して厚い信任を置いた。また、勝家の信長に対する忠誠心は絶対であったとまで言われている。
・ルイス・フロイスは著書『日本史』で「信長の重立ちたる将軍二人中の一人」と記している。

酒井忠次(上)

戦国くじ白で武将カードNo.4028「酒井忠次(さかいただつぐ)」を引き当てました。


超有名な武将ですね。
なんか・・・他のカードに比べて派手(´∀`*)

ワンコのコメント:
松平家、徳川家に仕えた三河の武将だワン!
家康第一の功臣として称えられている人だワン。

注:松平家=徳川家の前身なので徳川一筋ということです。

以下Wikiより抜粋:
・徳川家康が今川義元への人質として駿府に赴くとき、家康に従う家臣の中では最高齢者として同行した。
・徳川四天王・十六神将ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられている。
・忠次の愛槍は「甕通槍」といい、甕もろとも突き抜けて敵を倒した、という逸話がある。

「甕通槍(かめとおしやり)」甕=かめ(貯蔵や運搬に用いられる容器)を通すというのは、 この槍をもって甕を突き通して敵を倒したという逸話によるものである。

って・・・スキル見ると弓隊突撃ですね。

2011年1月10日月曜日

長野業正(特)

なんとまたしても特カードを引きました!
またワールド16でw
カードNo.3021「長野業正(ながのなりまさ)」ヾ(@^▽^@)ノ


一瞬「原哲夫!?」と思いましたが、「前河悠一」という方のイラストだそうです。

ワンコのコメント:
上野箕輪城の城主だった武将だワン!
武田信玄の攻撃を何度も撃退し『上州の黄班』といわれる猛将だワン!!

Wikiによると
『長野氏は上野西部の豪族であり、関東管領・山内上杉家に属する勢力であった。』

『武田信玄は、「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆いたと言われるほど業正は信玄をてこずらせた。彼の死を知ると信玄は大いに喜び、「これで上野を手に入れたも同然」と述べて、すぐに軍を上野に向けたとされる。』

鍋島直茂(特)

ワールド16で初の特カードを引きました!
カードNo.3015「鍋島直茂(なべしまなおしげ)」ヾ(@^▽^@)ノ

ワンコのコメントは
肥前の戦国武将だワン!!
『鍋島化け猫騒動』で知られる人物でもあるワン・・・。


「肥前」とは。以下Wikiより抜粋です。

『肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、西海道に含まれる。別称は肥後国とあわせて、または単独で肥州(ひしゅう)。現在の佐賀県と、対馬市と壱岐市を除く長崎県にあたる。延喜式での格は上国、遠国。』

鍋島直茂の人物について調べてみました。
以下Wikiより抜粋です。

『豊臣秀吉に早くから誼を通じて、島津氏に恭順しつつも裏では九州征伐を促した。この一連の動きを秀吉は高く評価し、龍造寺氏とは別に所領を安堵し、龍造寺政家に代わって国政を担うよう命じた。そのため、国政の実権は直茂が掌握するところとなり、朝鮮出兵においては龍造寺家臣団を率いて渡海した。この朝鮮出兵を経て、龍造寺家臣団の直茂への傾倒が一層促進された。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、息子の勝茂が当初西軍に属して積極的に参戦したが、直茂は東軍勝利を予測しており、先ず尾張方面の穀物を買い占めて家康に献上、関ヶ原での本戦が開始される以前に勝茂とその軍勢を戦線から離脱させている。その後直茂は、家康への恭順の意を示すために九州の西軍諸将の居城を攻撃することを求められ、小早川秀包の居城久留米城を攻略、次いで立花宗茂の居城柳川城を降伏開城させた。更に直茂は、他の東軍諸将と共に島津への攻撃まで準備したが、こちらは直前に中止となった。一連の九州での鍋島氏の戦いは家康に認められ、肥前国佐嘉の35万7000石は辛うじて安堵されている。』


さっそくスキルレベルを上げてみました。
鉄砲隊剛撃LV2
 確率:+20.5% / 対象 砲
 砲攻:10.5%上昇

2011年1月8日土曜日

織田信長(上) 鉄砲隊狭撃アゲ

クエストで「名将」で「スキルレベル3以上の武将を、部隊に配置しましょう。 」ってことで、織田信長(上)のスキルを上げました。

鉄砲隊狭撃LV2


鉄砲隊狭撃LV3
あまり使いたくなかったのですが、合成時の銅100を無駄にするのも嫌だったので序のカード5枚を生贄に・・・。
確率が11%、砲攻が11.4%上昇になりましたヾ(@^▽^@)ノ

2011年1月7日金曜日

斉藤朝信(上)

戦国くじ白で武将カードNo.4037「斉藤朝信(さいとうとものぶ)」を引き当てました。


槍B馬B、コスト2、イイですねぇ。
なんか絵がイイです!

以下Wikiより抜粋
斎藤 朝信(さいとう とものぶ、大永7年(1527年)? - 文禄元年(1592年)?)は戦国時代の武将。越後国の上杉氏の家臣。赤田城主。父は斎藤定信、子に乗松丸(斎藤景信)。下野守。没年は天正年間とも。武勇の誉れ高く、「越後の鍾馗(しょうき)」と呼ばれたという。

山中鹿介(上)

戦国くじ白で武将カードNo.4024「山中鹿介(やまなかしかのすけ)」を引き当てました。


勇猛な武将として有名で育てたいとは思うのですが・・・槍C馬C弓C器Fですか・・・。

以下Wikiより抜粋
山中 幸盛(やまなか ゆきもり)は、戦国時代の山陰地方の武将。出雲国能義郡(現島根県安来市広瀬町)に生まれる。戦国大名尼子氏の家臣。実名は幸盛(ゆきもり)、通称鹿介だが、講談の類で鹿之助とされたため一般には山中鹿之助(しかのすけ)なる誤った表記で知られる。幼名は甚次郎。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。

衰亡した主家に忠誠を尽くして戦い続け、その有り様が後人の琴線に触れ、講談などによる潤色の素地となった。特に江戸時代には忠義の武将としての側面が描かれ、悲運の英雄としての「山中鹿之助」が創られていく。これが世に広く知られ、武士道を精神的な支柱とした明治以降の国民教育の題材として、月に七難八苦を祈った話が教科書に採用された。

可児才蔵(序)

戦国くじ白で武将カードNo.5049「可児才蔵(かにさいぞう)」を引き当てました。
序のカードですが、信長の野望などでも気に入ってた武将なので紹介しておきます。


主君を何度も変えているので誰の家臣といえばいいのか・・・最後は福島正則の家臣だったのかな。
武勇で有名な武将という印象です。

以下Wikiより抜粋
・宝蔵院流槍術の開祖、覚禅房胤栄に槍術を学んだとされる。
・主君を何度も転々と変えているが同じ立場にある藤堂高虎に対しては非難の声が現在でも高いのに対し、才蔵の人気は当時からかなり高かった。当時、墓前を通る者は才蔵の武勇を賞賛しその墓前で下馬して礼を送ったという。
・笹の指物を背負って戦い、戦いにおいては敵の首を討つことが常に多くてとても腰に抱えることができなかったため指物の笹の葉をとって首の切り口に入れておいた(あるいは口にくわえさせた)という。このため、才蔵の討った首と合戦の直後にすぐにわかったという。これらの経緯から、「笹の才蔵」と称された。

2011年1月4日火曜日

宇喜田秀家(上)

コミケで(厳密に言うと「コミケ会場最寄り駅りんかい線国際展示場駅前」)で配布されていたシリアルコードで武将カードNo.4044「宇喜田秀家(うきたひでいえ)」を獲得しました。


豊臣政権下の五大老の一人。

以下Wikiより抜粋
元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗った。秀吉の寵愛を受けてその猶子となり、天正14年(1586年)には秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室とする。このため、外様ではあるが、秀吉の一門衆としての扱いを受けることとなった。

秀吉没後の慶長4年(1599年)、宇喜多家内部で御家騒動が発生した。原因は秀家の素行に問題があったことのほか、宇喜多家の執政であった長船綱直や中村次郎兵衛らの専横への他の重臣の不満、さらに宇喜多家では日蓮宗徒の家臣が多かったが、秀家は豪姫がキリシタンであったことから家臣団にキリシタンに改宗するように命令するに至ったため、家中で騒動が起こったのである。秀吉譲りの豪奢を好み、そのツケを領民への苛斂誅求で補おうとした。鷹狩を好み鷹を100羽飼っており、その世話のための家臣を300名抱えたとされる。鷹の餌のために領民に飼い犬を差し出させた。

森長可(上)

コミケで(厳密に言うと「コミケ会場最寄り駅りんかい線国際展示場駅前」)で配布されていたシリアルコードで武将カードNo.4050「森長可(もりながよし)」を獲得しました。


織田信長の家臣。
森蘭丸(森成利)の兄。

以下Wikiより抜粋
永禄元年(1558年)、森可成の次男として生まれる。元亀元年(1570年)に父・可成が戦死し、長兄の可隆も同年に戦死していたため、僅か13歳で家督を継いで織田信長に仕え、信長より一字拝領し「森勝蔵長可」を名乗った。元亀3年(1572年)12月には羽柴秀吉・丹羽長秀・塙直政らとともに発給文書に連署しており、15歳にして既に他の重臣らと同じように活動している様子が窺える。

松平元康(上)

コミケで(厳密に言うと「コミケ会場最寄り駅りんかい線国際展示場駅前」)で配布されていたシリアルコードで武将カードNo.4010「松平元康(まつだいらもとやす)」を獲得しました。


のちの徳川家康(とくがわいえやす)ですね。
江戸幕府を開いた人ですよ。

以下Wikiから抜粋
家康の遺訓として「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、 こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。 勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。 及ばざるは過たるよりまされり」は有名。

徳川家康の軍旗には「厭離穢土欣求浄土」と書かれていたそうです。
「厭離穢土」・・・この世をけがれた世界としていとい離れること
「欣求浄土」・・・心から喜んで浄土に往生することを願い求めること。
参照:http://www.aduchimomoyama.com/b3_tokugawa.htm

徳川四天王
井伊直政、本多忠勝、榊原康政、酒井忠次

織田信長(上)

コミケで(厳密に言うと「コミケ会場最寄り駅りんかい線国際展示場駅前」)で配布されていたシリアルコードで武将カードNo.4013「織田信長(おだのぶなが)」を獲得しました。


言わずと知れた信長様ですね。
コスト3で鉄砲B、式兵数2430です。

島津貴久(上)

戦国くじ白で武将カードNo.4009「島津貴久(しまづたかひさ)」を引き当てました!

解説:
薩摩の守護大名、島津家の第15代当主だワン!!
鉄砲を実践で初めて使用した武将とも言われているワン。


島津家の家紋が鎧に付いてますね。